大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 平成6年(う)556号 判決

裁判所書記官

安島博明

本籍

東京都世田谷区下馬五丁目三四番

住居

同都同区桜丘四丁目一六番二一号

会社役員

宮田宗信

昭和一九年七月三〇日生

右の者に対する所得税法違反被告事件について、平成六年三月八日東京地方裁判所が言い渡した判決に対し、被告人から控訴の申立てがあったので、当裁判所は、検察官五島幸雄出席の上審理し、次のとおり判決する。

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人関野昭治名義の控訴趣意書に記載のとおりであるから、これを引用する。

そこで、原審記録及び証拠物を検査し、当審における事実取調べの結果をも併せて検討する。

一  法令適用の誤りの主張について

論旨は、要するに、本件は事前の所得秘匿工作を伴わない虚偽過少申告の事案であるから、所得税法二三八条一項の罪が成立するためには、当該申告によって税を逋脱することの積極的な意思と被告人において敢えてその申告に及ぶ行為の双方が存在しなければならないところ、これらの事実に何ら言及しないまま本件虚偽過少の所得税確定申告書の提出を「偽りその他不正の行為」に当たるとして同条項を適用した原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな法令適用の誤りがある、というのである。

しかしながら、事前の所得秘匿工作がなくても、真実の所得を秘匿し、所得金額をことさら過少に記載した所得税確定申告書を税務署長に提出する行為は、それ自体所得税法二三八条一項にいう「偽りその他不正の行為」に当たるのであって(最高裁昭和四八年三月二〇日第三小法廷判決・刑集二七巻二号一三八頁等参照)、この場合に、所論のように事前の所得秘匿工作を伴う場合よりも積極的な逋脱の意思等を要するものと解すべき実質的な理由を見出し得ない。所論は、独自の見解をもとに原判決の法令適用の誤りを主張するものであって、到底採るを得ない。

二  事実誤認の主張について

論旨は、要するに、被告人には逋脱の故意がないのに、これがあるものと認定した原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認がある、というのである。

所論は、前記一のように、事前の所得秘匿工作を伴わない虚偽過少申告逋脱犯においては、税を逋脱することの積極的な意思の存在が必要であるとの見解のもとに、被告人は、「平成二年一月ころ、立花玲子に対し本件仲介手数料収入を平成元年分の所得として申告する意思であることを伝えたところ、同女から、『申告するな。申告するならただじゃ済まない。こっちには前科者がごろごろしている』などと脅迫され、もし同女の要求に応じなければ暴力団等により自己の身体、財産のみならず実母らにも危害を加えられると畏怖し、敢えてこのような危険を冒すよりも次年に繰り越して申告するほうが安全であると考え、やむなく次年以降に申告するという方法を考えたものである」という被告人の捜査段階以降の供述を援用し、原判決が(争点に対する判断)の項において説示するところに種々反論を加えている。

しかしながら、所論の見解を採り得ないことは先に指摘したとおりである。そして、被告人の右供述を前提にしても、被告人が、平成元年中に二億三五〇〇万円の仲介手数料収入を得ながら、それを除外して内容虚偽の所得税確定申告をすることにより、法定納期限において本来納付すべき税の納付を免れる結果を生じることを認識していたことは疑いのないところであり、右のような認識のもとに虚偽過少の所得税確定申告書を提出し、法定納期限を徒過させたものである以上(本件のような納期前の虚偽過少申告逋脱犯は法定納期限の徒過により既遂に達する)、たとえ次年以降に右過少申告分を繰り越して申告する意思があったとしても逋脱の故意に欠けるところはないものというべきである。

また、所論は、被告人自身は申告の意思を有していたものの、前示のように立花から脅迫されたため、(1)適正な申告をすることについて期待可能性を欠いたものであり、(2)次年以降に申告納税する意思があったから、虚偽過少申告をすることにつき違法性の意識を欠き、また、欠いたことに過失はない、と主張する。

しかしながら、被告人が、如何に立花からの脅迫を恐れたといっても、適正な申告をすることにつき税務当局や警察等に相談するなどの行為に出ることは十分に可能であったことが明らかであるところ、原審記録に被告人の当審供述を併せ検討すると、被告人が法定納期限内に右のような行動に出るなどの努力をした節は一切窺われないのであり、また、被告人は、立花の示唆によるとはいえ、平成元年四月に本件仲介手数料として受け取っていた額面一億円の小切手二通を銀行において換金する段階で既に偽名を用い、現金の入りが判明しないようにしていること、二億三五〇〇万円を、借金の返済、関係している会社等への融資、自宅の家具調度の購入などに費消し、同年一二月末の時点で既に残金が約二〇〇〇万円程度になってしまい、納税資金確保の確たる目処が立っていたわけでもないことが認められるのであって、右のような事情に照らせば、被告人において適正な申告をすることにつき期待可能性を欠くなどとは到底いえないばかりか、そもそも、もっぱら立花の脅迫のみが動機となって本件虚偽過少申告に及んだという弁解自体も採ることはできない。そして、被告人は、次年以降に申告する意思を有していたとしても、正規の申告期限(法定納期限)までに申告すべきものであるとの認識を有していたことも前示の供述自体から明らかなのであって、違法性の意識があったことが優に認められる。

その他所論にかんがみ検討しても、被告人に逋脱の故意があるとした原判決の事実認定に誤りはなく、論旨は理由がない。

三  量刑不当の主張について

論旨は、要するに、被告人を懲役一年二月(三年間執行猶予)及び罰金二五〇〇万円に処した原判決の量刑は罰金刑を併科した点において重過ぎて不当である、というのである。

本件は、被告人が、平成元年分の所得に関し、絵画の売買取引に関して受け取った仲介手数料収入二億三五〇〇万円を除外する方法により、所得を秘匿して、内容虚偽の所得税確定申告書を提出して法定納期限を徒過させ、もって、偽りその他不正の行為により、正規の所得税額一億一七九八万八九〇〇円と申告税額との差額一億一六九一万一七〇〇円を免れた、という虚偽過少申告による所得税逋脱事犯であるところ、その罪質をはじめ、不透明な点が多々ある売買取引をめぐって二億三五〇〇万円という多額の仲介手数料を受け取りながら、これを一切申告しなかったという態様や逋脱税額が単年分としては高額であり、逋脱率も約九九パーセントと極めて高率であること、逋脱本税については全額納付したものの、重加算税をはじめ、延滞税、都・区民税などなお多額の未納付分を残していることなどからすると、被告人の刑事責任を決して軽視することはできない。

そうすると、本件においては、一連の取引及び脱税工作の中心人物と目される立花の強い働きかけが被告人の犯行の要因となっていること、被告人は前記未納付分を完納すべく努力を続けていること、これまでに前科がなく、真面目に仕事をしてきており、本件を後悔、反省していることなど被告人のために酌むべき事情もあるけれども、租税逋脱犯において罰金を併科する趣旨や同種事犯における従前からの併科の実情に照らすと、原判決が、懲役一年二月(三年間執行猶予)に罰金二五〇〇万円(労役場留置は二五万円を一日に換算)を併科したことが重過ぎて不当であるとは到底いえない。論旨は理由がない。

よって、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することとして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 香城敏麿 裁判官 森眞樹 裁判官 中野久利)

平成六年(う)第五五六号

控訴趣意書

罪名 所得税法違反 被告人 宮田宗信

右被告人に対する頭書被告事件につき、被告人が控訴した趣意は左記の通りである。

平成六年五月二三日

右被告人弁護人

弁護士 関野昭治

東京高等裁判所第一刑事部 御中

平成六年三月八日東京地方裁判所刑事第八部は

被告人は、東京都世田谷区桜丘四丁目一六番二一号に居住しているものであるが、自己の所得税を免れようと考え、ルノアール作の絵画の売買取引に関して受け取った仲介手数料収入を除外する方法により、所得を秘匿して、平成元年度分の実際の総所得金額が二億五〇七五万八、三三二円であったのに、平成二年三月九日、同区若林四丁目二二番一四号にある所轄世田谷税務署において税務署長に対し、総所得金額が一、五七五万八、三三二円でこれに対する所得税額が一〇七万七、二〇〇円であるという内容の虚偽の所得税確定申告書を提出した。そして、そのまま法定の納期限を経過させた結果、同年分の正規の所得税額一億一、七九八万八、九〇〇円と右の申告税額との差額一億一、六九一万一、七〇〇円を免れた。

との公訴事実を認定したうえ、検察官が、被告人に懲役一年二月、罰金三、〇〇〇万円を求刑したのに対し、懲役一年二月、三年間執行猶予、罰金二五〇〇万円、この罰金を完納することができないときは、金二五万円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する旨の判決を言い渡した。

しかしながら、原判決が被告人に対し、有罪判決を言い渡した点において法令適用の誤りがあり、かつ事実の誤認があって、これらの誤りが判決に影響を及ぼすことが明らかであり、仮に有罪がやむを得ないとしても、その刑の量刑が重きに失し、不当であるから到底破棄を免れない。以下その理由を述べる。

第一 法令適用の誤りについて。

一 原判決は、弁護人の「本件は不正行為の伴わない単純な過少申告であり、かつ、被告人において現行税法に従い、真実の所得について納税する意思があったものであるから、所得税法第二三八条第一項に規定する『偽りその他不正の行為により……所得を免れ』という構成要件に該当しない旨の主張に対し「真実の所得を秘匿し、所得全額をことさらに過少に記載した所得税確定申告書を税務署長に提出する行為は、それ自体所得税法第二三八条第一項にいう『偽りその他不正の行為』に当ると解すべきである(最判昭和四八年三月二〇日刑集二七巻二号一三八頁参照)。本件において、被告人は、判示の通り、平成元年度に二億円を超える所得があったにもかかわらず、所得が約一、五七六万円しかない旨の虚偽の所得税確定申告書を提出したのであるから、これが『偽りその他不正の行為』に当ることは明らかである。」旨判示して弁護人の右主張を排斥した。

弁護人が、本件につき逋脱犯が成立しないと主張するところは、言う迄もなく「偽りその他不正の行為」の伴わない過少申告のすべてにつき、逋脱犯が成立しないというものではなく、その過少申告が諸般の状況を総合し、申告者において真実の所得につき納税する意思があったと判断される場合には、その過少申告は不正行為に該当しないとの理論を前提とするものである。

これを判決例においてみるに、

1 (昭和二四・一二・二三 大阪高裁判決。特報五号一一二頁)

「先ず弁護人の、被告人は本件につき何等詐欺その他不正行為と目すべき積極的な行為をしていないと主張する点につき按ずるに、確定申告における過少申告が常に所得税法第六九条第一項にいわゆる詐欺その他不正行為に当るとは言えないが、原判決認定のごとく三六四万余の貸金利子所得についてはその全額を隠匿して申告せず、二一二万円余の弁護人所得については僅かにその十分の一に過ぎない額を申告しているに過ぎない点から見て、現行税法に從って真実の所得につき納税する意思のなかったことは明瞭である本件事案においては、かゝる過少申告の行為自体が右にいわゆる不正の積極的作為に当ることはは勿論である。」

2 (昭和二六・一二・一七 大阪高裁第七刑事部判決。刑事裁判資料第九三号三八九頁)

「しかし、確定申告における過少申告が常に所得税法第六九条第一項にいわゆる不正の行為に当るとは言えないが、原判決挙示の証拠によれば、被告人細川の使用人津田克己は当時その営業所得の大部分を細川に交付しながらことさらに、(一)昭和二二年度の営業所得四二万六、五四六円を一二万五〇〇円に、(二)昭和二三年度の営業所得七四万三、四七二円を一二万円に申告している事実が認められるから、津田が被告人細川のためにこれを秘匿したことを推認するに充分であり、かように実際上の所得額の(一)三分の一又は(二)六分の一にも満たない額を申告している事実を綜合すれば、津田は現行税法に從って真実の所得につき納税する意思がなかったことは明瞭である。從ってかゝる過少申告は右にいわゆる不正の行為に当るものと言わなければならない。」

3 (昭和五五・二・二九 東京刑二五判決。昭和五一年(わ)一六四九号、タイムス四二六号二〇九頁)

(一)「租税逋脱犯の構成要件は、偽りその他不正の行為により納税義務を免れることであるから、右逋脱犯の構成要件を組成する客観的事実の認識が成立するためには、納税義務、すなわち、その内容をなす所得の存在についての認識が必要であり、更に、加えて偽りその他不正の行為に該当する事実の認識、及び、逋脱結果の発生の認識が必要である。しかし、法人税逋脱税額算定の前提となるべき所得そのものが、そもそも経済的な概念として可分的な数額であり、それを構成する益金、損金も、もともと個々の取引によって組成されている以上、個々の収益、損金勘定のうち、行為者に右所得の存在することについて認識を欠き、右逋脱の犯意の認められる場合があれば、たとえ、行為者において、概括的な虚偽過少の申告をなしていることの認識があったとしても、その部分に限っては逋脱の犯意を欠き、從って逋脱所得より控除すべきこととなる。すなわち、それは故意に基づく所得の隠蔽工作とはかかわりなく、故意によらず、あるいは不注意や思い違い等による収益の過少記載、又は損金の過大記載に基づく過少申告によって、客観的には税を免れる結果を生じても、それは『偽りその他不正の行為』により免れた税額には含まれないものと解すべきである。― 中略 ―」

(二)「租税逋脱犯の構成要件該当行為としての『偽りその他不正の行為』には、たとえば、期末たな卸高を圧縮したり、架空仕入を計上するなどの方法により、所得を秘匿する行為をともなって虚偽過少申告をする行為や、右の如き秘匿行為をともなわない単に虚偽過少申告行為のみが逋脱行為となる態様がある。右のうち、所得秘匿行為を伴わない場合には、逋脱の意思をもって、所得金額をことさら過少に記載した内容虚偽の確定申告書を提出することを要する(最高裁判所昭和四八年三月二〇日第三小法廷判決刑集二七巻二号一三八頁参照)。それは、当該申告によって税を逋脱せしめることの積極的な意思の存在を必要とし、さらに行為者において、あえて右申告に及ぶことを要する。從って、それは未必の故意があるだけでは足りないと解しなければならない。」

二 以上掲示した判決例によっても明らかなように、確定申告における過少申告が、常に「偽りその他不正の行為」に該当するものとはいえないのであるが、問題となるのは所得を秘匿する行為がともなわない虚偽過少申告が「偽りその他不正の行為」となるかとの点である。

原判決は、架空仕入の計上等の方法により所得を秘匿する行為をともなう過少申告行為も、このような所得の秘匿行為をともなわない単なる過少申告も含め総べて「偽りその他不正の行為」に該当する旨判示認定しているが、原判決挙示の最高裁判所判決は、所得の秘匿行為をともなわない虚偽申告の場合には、逋脱の意思をもって、所得金額をことさら過少に記載した内容虚偽の確定申告書を提出することを要する旨の判断を示しているものであって、いわゆる過少申告事犯の総べてが「偽りその他不正の行為」に該当する旨判示しているものではない。

被告人は本件所得税確定申告書に当たり、その所得中、給与所得のみを申告し、雑所得である本件仲介手数料を後記理由からその所得より除外したものであるが、右仲介手数料収入に関する所得については、その所得を秘匿する行為は全く行っておらず、まさに秘匿行為のともなわない単なる虚偽過少申告であるから、本件過少申告が「偽りその他不正の行為」に該当し、所得税法第二三八条第一項により処罰し得るとするためには「当該申告によって税を逋脱せしめることのの積極的な意思の存在」と「被告人において、あえてこれが申告に及ぶ行為」でなければならない。

原判決は、これらの事実につき何ら言及しないまゝ、前記のごとく、「真実の所得を秘匿し、所得金額をことさらに過少に記載した所得税確定申告書を税務署長に提出する行為は、それ自体所得税法第二三八条第一項にいう『偽りその他不正の行為』に当たるを解すべきである。」旨認定し、同条を適用したのであるが、このことはまさに法令の適用を誤った違法であり、その誤りが判決に影響を及ぼすことが明らかである。

第二 事実誤認について。

一 弁護人は原審において、被告人は本件絵画取引に関する仲介手数料収入について、平成二年一月と二月ころ、平成元年度の収入として申告すべく立花玲子に対し、申告する意思のあることを伝えたところ同女より脅迫され、若し同女の要求に応じなければ暴力団等により危害を加えられると畏怖し、同年三月に提出の所得税確定申告書に右仲介手数料(雑所得)を記入しなかったものであり、この雑収入へ所得の不記載は、真実の所得につき納税する意思がなかったことを意味するものではなく、平成三年三月期の申告の際改めて申告する意思であったから脱税の犯意はなく、また、税法に無知な被告人が、立花に脅迫されたため、ベストの方法として、いわゆる繰越し申告を決意したことに何らの過失はなく、違法の認識を欠くについて相当な理由がある旨主張したところであるが、原判決は「被告人は公判廷において、平成二年一月ころ、立花玲子に対し、本件仲介手数料収入を申告すると伝えたところ、同女から『どうしても申告するというなら、ただじゃすまない。こっちには前科者がゴロゴロしている。』などと言われ、同女の要求に応じなければ、暴力団等により危害を加えられると思い、同年三月に提出した所得税確定申告書に右の仲介手数料収入を記載しなかったと供述する。この供述は排斥しがたいものである。」と判示しながら、「これによっても、被告人は、単に立花から言葉で脅されたに過ぎず、現実に危害を加えられたと畏怖して自由な意思を抑圧された訳ではないし、次年度以降であれば右の収入を計上することが可能であろうと思いつゝ当該年度は立花の言うとおりに從ったというに過ぎない。したがって、被告人としては、平成二年三月の確定申告の際に本件仲介手数料収入を計上することは充分可能であったと認められる。」旨認定し、実質上、被告人が立花より脅迫され畏怖したことにより当該年度における仲介手数料に関する申告がなし得なかった事実を否定し、これをもって被告人に脱税の犯意があったとの認定資料となした。

しかしながら、被告人の平成五年六月一五日付検察官に対する供述調書における供述内容は、右判示記載のごとき立花の言辞により、被告人は常日頃立花が右翼の大物や暴力団に多数のしりあいがいる旨申していたことから立花の右言辞は単なる嘘ハッタリではなく、若し立花の要求に応じなければ真実立花の手配した右翼や暴力団から危害を加えられると思ったというものであり(同調書九丁ないし一二丁)、原審公判廷においても同様の脅迫を受けたため、自分の身辺に危害が及ぶことを恐れた旨供述しているところであるから、被告人が原審公判廷において「これだけ物凄い剣幕で脅す以上、他に何か事情があるのだろう。おそらく売手さんの相続が終ってないのかなと想像し、まず申告することをずらし、平成三年の時にこの手数料収入を加えて申告しようと思いました。」旨供述していることや、被告人には、原審において証言した当時八一才になる母親宮田勤が同居しているため、母親思いの被告人が、立花の要求に從わない場合、あるいは暴力団等が被告人のみならず右母親に対し、いやがらせや脅迫行為に出るかも知れないと考えたことも容易に推定され(控訴審において立証予定)、これらのことを合わせ考慮するならば、原判決が前記のごとく「被告人は、単に立花から言葉で脅迫されたに過ぎず、現実に危害を加えられたと畏怖して自由な意思が抑圧された訳ではない。」旨認定したことは明らかに事実の誤認であると思料する。

被告人は立花の要求に從わずに、右仲介手数料収入を加えて平成二年度における所得申告を行うことにより、自己の身辺即ち、被告人の身体財産のみならず、実母等にも危害を加えられることがあり得ると思料し、あえて、これらの危険を冒すよりも次年度に右雑所得を繰越して申告する方が安全であると考え、本件過少申告に及んだのであって、被告人が右立花の言辞に畏怖したが故にあえて同女からの予測し得る危害を免れるため本件過少申告に及んだと認めるのが相当であって、このことは全く疑いを容れないところである。

従って、本件過少申告は、被告人が、右立花の脅迫により平成二年度における仲介手数料収入に関する所得申告を強行することができず、やむなく次年度以降に繰越して申告をする方法をとったものであり、被告人のかゝかる選択は無理からぬものというべく、あくまでも本件過少申告は右立花の脅迫に基因するものと判断するのが相当であり、原判決が前記のごとく「次年度以降であれば右の収入を計上することは可能であると思いつゝ、当該年度は立花の言う通りに従ったというに過ぎない。」旨認定したことも明らかな事実誤認というべきである。

二 前記第一、二に記載したごとく、秘匿行為のともなわない単なる虚偽過少申告についてこれが「偽りその他不正の行為」に該当し、所得税法第二三八条第一項に該当するものとして処罰し得るとするためには、「当該申告によって税を逋脱せしめることの積極的な意思」の存在が必要であるところ、本件はまさに秘匿行為の伴わない虚偽過少申告事犯であるから、仮に、原判決認定のごとく、被告人が「自由な意思を抑圧された訳ではなく、次年度以降であれば右雑収入を計上することが可能であると思いつゝ、当該年度は立花の言うとおりに從ったというに過ぎない。」ものであったとしても、本件について、被告人に積極的な脱税の意思がなかった場合には、本件逋脱犯は成立しないものといわなければならない。

被告人は本件雑所得収入の不記載について、平成五年六月一五日付検察官に対する供述調書中村において、「私としては来年つまり平成三年三月には仲介手数料収入をも含めた正しい申告をしなければならないと考えておりました。」(同調書一四丁)と供述し、原審公判廷においても「まずは申告することをずらし、平成三年の時に手数料収入を加えて申告しようと思いました。」旨陳述し(同原審第二回被告人供述調書)、更に同様原審公判廷において「サラリーマンでしたから確定申告についてしっかりした知識があったわけではありませんので繰り越そう、翌年に持ち越そうと思ったのです。」旨供述しているのであって(第三回公判被告人供述調書)、被告人は捜査段階から繰り返し脱税の意図はなく立花からの脅迫があったため、次年度以降に繰越し申告をする意思であったことを訴えているのである。

被告人は、平成三年三月期の確定申告の際も、右仲介手数料収入を申告しなかったのであるが、これは被告人が平成三年一月末と二月に右立花方に赴き、同女に対し「正式に右雑所得収入を申告する」旨伝えたところ、同女から「勝手なことをしないで頂戴。大勢の人が迷惑を受けるんだから。それでもやるんだったら、腕の一、二本やあばら骨は折られる覚悟だね。九州の右翼を囲ってるんだからいつでも飛んでくるよ。」といって脅迫されたことが原因であり、これをもって納税の意思を放棄したものではない(原審第二回公判被告人供述調書)。

被告人は、右脅迫を受けたことから、結局平成三年三月一五日迄の確定申告書に右所得を記載しなかったのであるが、この点につき被告人は、原審公判廷において、弁護人の「それで、以降、手数料は申告するまいと考えたのですか。」との質問に対し「いいえ、二回目の脅しを受けた時にこの人達と一緒では大変なことになるから、私単独で申告しようと決意しました。しかし脅しを振り切ってやるからには相当の危険があると思いましたので、どうしようかと考えているときに、ある経済誌に確定申告のノウハウという記事が出ており、三月一五日を過ぎて、修正申告をすれば、高額納税者付リストや所轄税務署の掲示板に公表されることがない。実際にはこういう方法でかなりの高額納税者が名前を出さずにやっているとありました。立花氏に私が申告したことに気付かれないために私もこの方法で三月一五日を過ぎてから申告しようと思いました。」(原審第二回公判被告人供述調書)と供述している。

その趣旨とするところは、右立花からの危害を免れるための便法として、とりあえず申告期限経過後に修正申告により本件雑所得を申告する意思をもって、同所得を除外した確定申告書を提出したものであるから脱税の意思はなかっというものであるが、この供述が真実であることは、被告人が平成三年三月一九日ごろ世田谷税務署に電話をかけ、本件雑所得につき修正申告をしたい旨申し入れたところ税理士に相談の上東京国税局に行く様言われた。従って同年四月一日岡野茂税理士(東京都新宿区西新宿七-一五-一〇大山ビル内)に相談して東京国税局に連絡して貰い、同年四月三日自発的に赴き事情説明に及んだことも明らかである(原審第二回公判被告人供述調書)。

以上の諸事実、及び、被告人の供述等によって、被告人に脱税の意思はなく、専ら、前記立花の脅迫を受け、同女から危害を受ける危険から逃れるため、次年度の繰越し申告をなす方法によって本件仲介手数料収入を申告納税すべく行動したことが明らかに認められるところである。

三 しかるに原判決は、「租税逋脱犯は、法定の納期限を経過することによって既遂に達するのであるから、虚偽過少申告に当ることを認識しつゝ法定の納期限を経過すれば、その時点で逋脱犯が成立するのであって、当該年度の法定納期限に正しい申告をしようとする意思がない以上、たとえ次年度以降に右過少申告分を繰り越して申告する意思があったとしても、逋脱の犯意に欠けることはないというべきである。」旨判示し、被告人に逋脱の犯意ないし違法性の意識がなかった旨の弁護人の主張を排斥した。

いう迄もなく、犯意とは、罪となるべき事実を認識しながら、敢えてこれをなす意思であるから、租税逋脱犯の犯意は、自己の具体的行為が租税法に定めた納税義務を免れしめ、よって国家の徴税権を侵害することを認識しながら、敢えてこれをなす行為又は不行為であると理解される。

そして、本件は前述のごとく秘匿行為の伴わない単なる虚偽申告であるから、その犯意は、当該申告によって租税を逋脱せしめることの積極的な意志の存在がなければならない。

しかるに原判決は、租税逋脱犯は虚偽過少申告に当ることを認識しつゝ法定の納期限を経過すればその時点で成立するとの誤った法解釈を前提としたうえで、被告人に当該年度の法定の納期限に正しい申告をしようという意思がなかったとの事実認定に立って、「ほ脱の犯意に欠けることはない」と断定したのである。

被告人には納税義務を免れる意思も、国家の徴税権を侵害する意思もなかった。従って租税を逋脱する旨の積極的な犯意がなかったのに拘らず、原判決は被告人に虚偽過少申告の認識があって法定の納期限を経過させたこと、法定の納期限に正しい申告をする意思がなかったとの事実を認定し、これをもって被告人に逋脱犯の構成要件上必要とする犯意があった旨認定したのであるから、この点事実の誤認があることが明白である。

四 近時逋脱犯に関する法律の錯誤については犯意を阻却しないとするのが一般的な傾向であるごとくであるが、その反面、違法の認識を欠くことについて真に過失がなく、相当の理由があると認められる場合は犯意が阻却されるとする判例もあり、これを容認する学説も多く、かつ、かく解することが相当であると思料する。

前述のごとく、被告人は、捜査段階から一貫して脱税の意思がなかったことを供述しているところであるが、原審記録上の証拠を綜合して認定し得る被告人の真意は、「前記立花の脅迫に畏怖し、本件仲介手数料収入を平成二年三月の所得税確定申告書に記載することができない状況となったため、その利益を次年度に繰り越し、次年度に申告納税する意思であったから脱税の犯意はなく、従って違法の認識もなかった。立花から脅かされた時にベストの方法だと思って申告時期をずらしたが、時期が遅れたものの自主的に申告し修正申告どおり受理されており、意図的に積極的に所得を隠して査察により脱税が発覚し裁判を受けるケースとは違う。」というものであって、被告人の原審公判廷における真摯な供述態度からみても、脱税に無知な被告人が立花に脅迫されたため、ベストの方法としていわゆる繰越申告を決意し実行したことには、何等の過失はなく違法の認識を欠くについて相当な理由があると思料する。従って、原判決が、被告人に逋脱の犯意ないし違法の認識があった旨認定しことは事実の誤認がある。

以上の通り原判決が被告人に本件逋脱犯の構成要件上必要な犯意が存在する旨認定したことは事実を誤認し、その誤認が判決に影響を及ぼすことが明らかである。

第三 刑の量定不当について。

弁護人は、以上の理由から原判決は法令の適用に誤りがあり、かつ、事実を誤認しており到底破棄を免れないところであって、これらの点から本件は無罪であると思料するところであるが、仮に有罪であるとしても、以下の諸事情から原判決の刑の量刑は重きに失するものと考える。

一 被告人は、捜査段階から一貫して脱税の犯意を否認しているものの、これは自己の心情を正直に吐露して陳情しているものであって、捜査期間や裁判所に対する抵抗の姿勢に基づくものではない。

被告人は検察官に対し「今まで申し上げてきた通り、私としては、ルノアールの絵画取引による手数料収入を不正に隠し、脱税をしてやろうというつもりはなかったのです。しかし、今まで申し上げてきたように、立花さんから脅しまで受けて申告を止められたこと、― 中略 ―正しくない申告をせざるを得なかったものなのです。そのあたりの事情をどうかお酌みとりいただき、なにとぞ寛大な処分をお願いいたします。私としては、一日も早くこの事件に結末をつけ、一生懸命仕事をして社会のために尽くし、迷惑をかけた方々に報いなければならないと心から思っております。長い間ご迷惑をおかけし申し訳ありませんでした。」(平成五年六月一五日付検察官に対する供述調書三〇丁)と供述しており、又原審公判廷においても「こういう事件で社会をお騒がせし、三年間肉体的にも精神的にも含めて大変苦痛を味わいましたが、これも私の弱さに対する罰と考えています。これから、社会に恩返しが出来る仕事を母親が生きてる間にしっかりさせて戴きたいと思っています。もう一度立ち直りたいと思いますので宜しくお願いします。」(原審第二回公判被告人供述調書)と供述しているところであるが、この供述は、被告人の真面目な人柄が滲み出ており、被告人において本件絵画取引に関与し、脱税事件に問われたことについて深く反省していると認められるのである。

原審公判において弁護人は、被告人が実母宮田勤の厳格な教育を受け、本来ならば、その経歴と環境に汚点を残す危険のある取引に巻き込まれるような人物ではなかったが、知人の金子暁からの依頼により立花と交渉を持って至ったという偶然から本件に巻き込まれた旨弁論したところであるが、原判決も「本件の背景には、一連の脱税工作を画策した中心人物と目される立花の強い働きかけがあり、それが被告人の犯行の大きな要因となっており、被告人が真実の申告をするについて心理的障害となっていることは否めない。」と認定して戴いたところである。

しかしながら、前記第二記載の通り、本件は被告人が立花の脅迫によって過少申告行為に及ばざるを得なかったものであって、これが、被告人の自由意思を抑圧したか否かの判断は別として、右立花の脅迫行為がなかったならば、決して本件過少申告の挙に出なかったことは明白であるし、又原判決も「たとえ次年度以降に右の過少申告分を繰り越して申告する意思があったとしても云々」と判示して被告人に納税の意思があったことを認める認定をしているのであるから、被告人において本件過少申告により脱税し、課税を免れ利得する意思がなかったとの点を酌量するならば、被告人に懲役刑の他罰金二、五〇〇万円の刑を併科することは酷に失するものと思料する。

二 被告人は、本件につき修正申告を行ない、本税一億一、六〇〇万余円を全額納付したが、その納税のため金四、〇〇〇万円を借り入れ(総額七、〇〇〇万円を借り入れうち金三、〇〇〇万円を事業資金に充当)、その返済資金を調達しなければならないほか、世田谷税務署より本件に関する遅滞税、及び、重加算税(金七、二八四万四、〇〇〇円)並びに東京都・区民税(金四、三五八万三、一〇〇円)の納付通知を受けており(控訴審において立証)、その納付資金の調達に苦慮している実情にあるから、このような被告人の経済状態を考慮した場合、更に被告人に罰金納付の義務を科することは極めて酷である。

これら諸事情を考慮すると原判決が被告人に対し、懲役刑の他多額の罰金刑を併科した判決を言い渡したことは量刑重きに失し不当である。

よって、被告人に対し懲役刑のほか罰金刑を併科することは是非ともお許し願いたいと陳情するものである。

平成六年五月二三日

弁護士 関野昭治

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例